林産技術普及協会創立50周年記念座談会

と き:平成15年2月20日(木)

  ところ:ニュー北海ホテル

司 会

上畑正和氏 竃k海道林材新聞社旭川支社長

   
高橋秀樹氏 秋元紀幸氏 高原 郷氏 相田嗣郎氏 麻生 繁氏 伊藤茂喜氏 伊藤勝彦氏

 

 司会・戦後の復興が本格化になり、人々も落ち着きを取り戻してきた時期に木材の多様な利用のために試験研究機関を設けて、北海道経済の発展の基礎づくりをしようという青年グループからの提案が知事を動かし、木材業界に感動を呼んだ・・・これが出発点となって昭和25年「北海道立林業指導所」(現北海道立林産試験場)が旭川市に創立されたわけですが、その研究成果を世に広く普及するという使命をもって昭和28年にいわば外郭文化団体的な性格をもって設立された「北海道林産技術普及協会」が、今年50周年を迎えることになります。意義深い半世紀の今、座談会を関係者の方々に飾って頂くことは大変意義深いことと考えます。表裏一体の林産試験場と普及協会の足跡『半世紀と今後』をテーマに語って頂きます。はじめに皆さんから半世紀を迎えた協会の歩みをどのように受け止めておられるかひとことづつ伺います。ちょうど今、7代目を務めておられる高橋会長さんからお願いします。

 高橋・昭和木材の前高橋二郎社長が協会会長を務めさせていただいた時に「木と暮らしの情報館」をつくることに情熱をかけて一生懸命遣っていた姿を見てきたこともあって、協会のことはある程度知っていました。会社で外装・内装材の難燃化をだいぶん前から遣っているのですが、当社が単独では幾ら遣っても十分に遣れるものではありませんで、林産試験場さんの力を頂いて一緒に遣りまして認定をとらさせて頂きました。それによって学校建築の内装など、それに住宅事業部の木造住宅差別化ということで外壁の一部にアクセントのような形で使っているなどで、試験場さんにご指導の面でも関係が深いんですね。

 試験場さんの設立は私が生まれた年、3才の時に普及協会設立ということなので、半世紀前の交々はあまり知らないんですが、試験場さんにはこれからも期待されますので頑張って頂きたいと思いますし、もう少しより企業と意志疎通をよくしてお互いに利用しあえばいい結果になると考えます。

 司会・十勝でカラマツ業界を代表される立派な経営は、試験場さんとの関わりも少なくないのではないかと考えますが、秋元さんは今どんな思いでしょうか

 秋元・私は試験場さんとの関わりは昭和40年代で、そんなに古くはないんです。元々は製粉・雑穀業でそこから木材業に転身したその時からということになりますね。カラマツ屋は木材であって木材屋でなかった時代で、木材や機械に対する基礎的な情報も知識もあまりなかった時代だったので、勉強するために林産試験場さんの門を叩いたのが昭和43年でした。当時技術科長だった北沢先生には大変お世話になりました。カラマツ業界も需要が伸びてくる、生産設備も充実させないとならないということで、機械選定から鋸づくりから指導を受けて今日があるということですね。平成4年から5年にかけてはカラマツ業界も新しい方向を行かざるを得ないということで、国の制度資金を使ってカラマツ高付加価値事業を展開した時にも試験場さんに入っていただいて、勉強をさせてもらったことがこれからのモノづくりに大変役立つのでないかと思っています。試験場さんにはいろんな知識が沢山ありまして、北海道の業界が元気になるためにはひと肌もふた肌も脱いでもらわないとなりませんし、業界との橋渡しに普及協会がどういう役割を今後果たしていくのか一番重要なところにきているんだと思うので、そういう意味でも期待しているところなんです。より密接な連携を業界と持って頂くようにお願いしたいなと思っています。

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 司会・「これからの林産工業」と言う点に日頃から格別の問題意識をもっておられる高原さん、いかがですか。

 高原・50年間という年月を考えると、時代の変化に対応しての時々のご苦労は少なくなかったと思いますが、知的な蓄積も多いと思いますし意義深い半世紀だったと思いますが、これからどうするか?だと思うんですね。折角培ってきたものが今後余り利用されないということでは残念ですし、先人に申し訳ないことです。ここでよく考えなければならないのは、過去の50年とこれからの50年だと思うんですね。過去の50年は豊富な資源に恵まれた時代であって、これからの50年はそこが大きく変わっているということです。天然林が相当枯渇し特に広葉樹資源についてはかなりの勢いで無くなってきていることです。針葉樹に関しても天然林が減って人工林比率が高くなっている。こうした背景の中で林業界・林産業界がどういう形で生き残っていけるかということだと思うんですが、広葉樹は無いものは仕様がないと。天然更新で手を尽くしているでしょうけれど、長い期間に亘って考えないと北海道産広葉樹は資源的に難しいのでないか。人工林を裏山の資源として如何にして使っていけるかということでないかと思いますね。循環型資源を立ち上げていかなければなりませんし、試験場さんには人工林を主体にした海外競争に負けないような製品をどのように作っていくかだと考えます。広葉樹は早い話がロシア資源とのつき合い方だと思うんですね。ロシアは林産業はこれからだと思うんです。

 司会・企業経営者として勉強家で知られる相田さんの目に50年がどう映っておられますか

 相田・業界に入ったのが昭和42年ですから、それより古いことは分からないんですが、当社の前社長(※相田時雄さん)が異業種からきて社長を継いだ経緯がありまして、夏場に針葉樹・冬場に広葉樹という需要に合った生産の形が多かった針葉樹工場にかんして、時代背景などからコストダウン、省力化などという格好で社長が林産試験場さんにお世話になってきた、そのことを私も見聞きしてきたわけなんです。防腐材生産に取り組む時にいろいろな形でご指導を頂きながら、防腐材JASをどうしようか、新しい防腐材の流通はどうあるべきかの議論を随分遣りました。木材乾燥問題でも広葉樹の乾燥が考え方の中心だった時代に、針葉樹構造材も乾燥しないといけないのでないかと。この時に試験場の指導をいただきながら北海道乾燥材普及協議会を立ち上げてやったのでした。私も協会役員をいわれてきていたんですが、地方の工場でもあることから遠慮申し上げていたところ高橋二郎会長(※当時昭和木材社長)から、若い者が協会役員で頑張らんと駄目だと強く言われてお引き受けし、ここまできたという次第です。

  50年の中で針葉樹が大きく変わったのは、資源よりも市場での仕様が全然変わってしまったということです。我々が試験場に期待したのは、従来の工場で如何にコスト低減するか、どれくらい歩留りを上げるか、一分間にどれくらい通し回数を上げて一人当たり生産性を上げるかーと言うことだった。それが今の段階はそういうことでなくて、一つは市場の仕様が変わったと、つまりグリーン材が市場から全く外れてしまってKD材が主要になった点、もう一つは流通チャンネルが従来は山元製材工場あるいは港の製材工場から販売店、そこから繋がる工務店という流通形態が50年間でこんなに変わったものはない。そこにプレカット化の時代が出てきてそこからダイレクトに大工さんという繋がり、あるいは製材工場を跳ばして輸入製材が真っ直ぐプレカット工場に入ってそのまま市場に入っていくと。これからの試験場・普及協会を考える時、その在り方は如何に時代要求、業界が生きていくために何をしていくかを先端に研究をして頂いて、試験場あってよかったなという形にあって欲しい、こんなことを考えています。

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 司会・麻生さんお願いします。

 麻生・私がたまたま北海道木材青年経営者協議会(今の木材青壮年協議会)の会長に就任した時、林産試験場で全道幹事会を開催させて頂いた記憶があります。当時の場長さんが千広俊幸さんであったと思います。当時プレ乾燥ですね、小屋を建てて中に入れて我々も一緒に遣った記憶もありますし、強度試験で橋材が取れない時などは北洋カラマツをもってお願いしたことがありました。成果を早速土木現業所などに持っていき大変お世話になったものでした。時代はどう変わろうとも、林産試験場無しには業界発展にはなり得ないのではないかと思っているところです。

 司会・伊藤さんいかがでしょうか。

  伊藤(茂)・協会に加入させて頂いて2年と日が浅いのですが、私のところでは丸太でも製材でも乾燥重視ということから、自然乾燥によるモノを販売していく、その自然乾燥の度合いが非常にいいんだというのが自慢でやっていたんですが、試験場にも随分とお世話になってきました。乾燥丸太で挽くと角材の淵が裂けるように出るんですよ。それを挽き肌も良く改善したいと、昭和57、8年頃だったと思うんですがご指導頂いて、この形から本機のスピード調整など勉強させてもらいましたのと、鋸のステライト加工にも及んで随分改善させて頂いたのでした。加工にも力を入れているんですが、床関係にしても狂いのない良質製品の提供に関して相談・指導を頂いているところです。内装関係になると特に吟味した製品ということが欠かせない、となると信頼できて相談もし易い林産試験場を頼りにしていきたいと思っています。

 司会・50年前を想起すると昭和30年代初めの北海道の製材工場は、鋸目立て技能者不足が深刻な問題の一つでした。この事態に対応して林業指導所に「北海道鋸目立て技術教習所」が開設され、全道から教習生が入所したものでした。製材の原点鋸問題の解消という点にも大きな足跡がありますね。乾燥や集成材技術もこの後にクローズアップされてきたと思うんですがこのへんの当時の動き、伊藤(勝)さんお願いします。

  伊藤(勝)・指導所が出来た当時、目立て技能者育成は一つの柱だったようです。当時はどこそこに有名な目立士がいるとそこに弟子入りする、そこである程度身につけたら独立するいわゆる徒弟制度みたいなもので流儀があったようです。製材工場が増えてきた時代はそれでは間に合わないため、お話にあった当時の北澤さんを中心に目立ての育成が指導所で始りかなりの技能者が全道に配置されました。その人たちとの会「キツツキ会」というのを後援していたのが普及協会だったんです。わが国最初の繊維板を作ったのも林産試験場です。当初廃材の利用技術が主だった中で木材糖化もありました。集成材研究は当初アメリカからヒッコリーを輸入してやったのが始りだったはずですが、その後技術は確立されあとは品質をどうするかという方向で集成材業界へのそれなりのお手伝いはかなりできたと考えます。パーチクルボードなどもありますが40年くらいまでがいろいろな商品開発含めて、試験場が業界の皆さんと一体になっていろんなことが出来た時代でした。30年台後半にカラマツ問題が出てからは50年頃までの間、カラマツをどうするか一本で研究を遣りました。カラマツをこうしたら使えるというメニューを一杯作ったんですが、カラマツを使うにはこうしたらいいですよ、というところに止まっていて、カラマツだからこそこういう使い方がありますよというところに及ばなかった。

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  秋元・カラマツの中で画期的技術というのは脱脂乾燥の技術なんですね。嘗て長野県にもありましたが、薬剤を使うので公害問題を誘発するのとコスト的に高くなると。そこからいくと林産試験場さんの技術開発は沢山ある技術の中の最高のものという位置づけでないかと思いましたよ。それがあるからこれからのカラマツ、人工林対策が安定した路線で進むんだと考えています。一番大きな成果と私は見ていますけどね。

 司会・道内での技術水準は各工場どういうところにありますか。

  秋元・どこでも遣れる状態にあるといえますね。それも以前からするとかなりローコストで遣れるような体勢になりつつあります。これからカラマツ時代と言われる中で、我々業界としては力強い技術開発でしたね。

  司会・カラマツ権威の第一人者であって北海道カラマツ製材協議会会長を務められている業界リーダーの高い評価は、試験場の皆さんにとっても力になると思います。この評価と共に先程の鋸問題にも拘りたいんですが、相田さんは地域に目立て協同組合を設立されてきた経緯をお持ちですが・・・・・・

 相田・製材工場では給与大系は鋸目立てから決まるんだと。伊藤さんの話にあった徒弟制度ではないが社長もなかなかモノが言えないようなものが存在したと。それが量産化、製材機械の進歩の中で昔流の目立て屋さん技術が追いつかなくなった。それで試験場の先生方に来てもらい診断してもらったりということが道内では多かった、その意味では試験場の技術に比重がかかったんだろうと思いますね。

 司会・林産試験場の成果から普及協会が機関誌「ウッデイエージ」あるいは「木材ノート」等などで、普及紹介してきた事例は膨大と思われる中でご紹介あった「カラマツ脱脂乾燥」の外皆さんの企業が関わってこられた話題もあると思いますが・・・・・・

 高橋・うちの会社は集成材の関係でやはり乾燥ですね。試験場と乾燥機械メーカーとでやったコンピュータ制御による理想的な乾燥スケジュールシステムを入れたんです。樹種、材積を入れて試験パーツを3か所くらい入れてセンサー監視しながら遣っていくと。これは大変よかったと思っています。集成材は原板がきしっと出来ていれば製品はいいものできるんですが、よく輸入モノでクレームが起きるというのは集成原板の乾燥に問題ありということですから、表面だけでなくて中まで応力を抜く形できしっとしたモノにもっていかないと後で狂ってくるんですよ。乾燥は大事なんですが、時間をかければいいというものではありませんで、理想的乾燥スケジュールという優れモノでやっています。

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 麻生・いまプレ乾燥はやっていますか。

 高原・私どもで遣っていましたが、今はやっていません。予備乾燥はある程度の規模がないと効率が成り立たない。経費の方が高くなってしまう。天然乾燥と予備乾燥の意図するところは同じなんですが、どちらがコスト低いかという問題であって、アメリカ、カナダであれだけ遣っているのは量の問題があるからです。

 秋元・試験場さんの遣ってきたことは鋸であれ、乾燥であれ基本データがしっかりしているんですね。そこを従って遣っていってどこか調整すればよくなる場合がある、モノによって違うわけですから。鋸でも原則論を先生はいう。それを忠実にやれば大体はちゃんといく。乾燥もそうなんですよ。前は天乾を云々言ったが今は人乾で当初のスケジュールをちょっといじっていけばいい乾燥になる。だから生でも差し支えない。試験場さんからのデータをこれは駄目だとほっては駄目で、どうやって合わせて使うか、これが業界としては必要だと考えるんです。

 麻生・橋桁材24尺の32、34センチ何百本使った時でも、我々幾ら言っても駄目。そこに試験場さんのデータを持っていけばちゃんと遣ってくれる、全然違う。 

 相田・時代が違うなと、つまり昔目立て屋さんが偉かったというのは鋸に惚れた挽き方を大体がしてしまう。40年代から如何に通し回数を増やすかで秒速何十メータの挽き立て云々とかの競争した。鋸がついていけない。そうなると歩留りどうとかよりも機械に体力ある鋸を作らないとならなくなる。18ゲージでもいいよとか、それにはステライトで耐えられるようにしようとか。だから時代の流れですよね。乾燥でも同じように初めは針葉樹の乾燥は広葉樹の3分の一で済むと、針葉樹乾燥は広葉樹乾燥を狙うような市場ではないよと広葉樹のベテランからよく言われたことがありました。一時針葉樹の乾燥はいい加減な乾燥だと言われたが、大体は広葉樹の3分の一位で上げてしまうと。それが時代の流れの中で針葉樹乾燥も含水率15基準でやるよと、いい加減な乾燥でなくて市場が要求してくるということでここまできている時に乾燥問題は奥深いと思うのは、我々の乾燥技術よりも欧州のそれが進んでいるのかなと。小径木のホワイトウッドを乾燥かけたきしっとしたものを出してくるという事実。結局我々はコスト面もそうだが技術面でも対抗出来ないのかなという疑問がありますね。

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 司会・50年を振り返る林産試験場の成果と木材業界を語って頂きましたが、それはある意味では普及協会が目的とする普及の成果にも繋がることであったと言っていいかと考えます。ここで「これからの試験場への期待〜そこに業界はどう関わっていくことが求められるのか」これについてお話頂きます。 

 秋元・時代変わったの一言に片付けられないんですが、以前のように肌でふれ合うような接近した形での物事処理が出来なくなったと。どうもお役人と業界と言う一つの溝が出来た感じですよ。この壁を取らないと駄目だということが一つ、もう一つは北海道の森林植生分布が道南はスギだとか、道東はカラマツとか、道北はトドマツだとか広範囲に区別されているんですね。その中で林産試験場が旭川に1か所というのは、北海道木材業界としては活用しづらいということでしょうね。地域密着型になっていないのではないかと。道東からは3時間往復6時間かかるとなりますとね。よほどの事がないと来ないということになると思うんです。今うちの場合どういう形で試験場さんにお世話になっているかというと、試作したりする時にこれはベースとして絶対きちんと遣らないと駄目だというとき、試験場に勝るものはないので知恵を借りながら指導を頂くということが必要な部分だと考えまするんです。企業なり地域によって考え方が違うんでしょうが、私はそのように考えて遣っているんです。新しい商品開発では基本的な部分でお手伝い頂いていかざるを得ないのでないかと考えます。

  さきほど相田さんから海外という話がありましたが、これからの人工林時代は海外の木材産業とどう戦うかの問題。この時に付加価値化をどう作るか、生産コストをどう低減していけるか、このへんでも試験場さんにお手伝い頂ける部分はあるのでないかと思っています。

 伊藤(茂)・太い丸太は期待無し時代に、間伐材を建築に活かしていかなければならないわけですが、大壁は中に構造材が入ってしまうとしても割れたり狂ったりしない製材ということから、集成材にしても欧州に負けない安いコストで作れるような方法が生まれないものかと。こんなことがあり得るなら業界としては有り難いことですね。                                                       

 麻生・世は密着・普及の時代から考えると、低コストでないと普及版にもならないし我々との密着版にもならない。かつて木青協と林産試験場の関わりでこういうことになって、これからは試験場と業界ががっちり手を組んで遣っていくことが必要になったのでないかと思います。

 相田・この10年間製材工場で設備投資をしようとかの考え全く無い。出来るだけ工場に金をかけないで、かけるなら加工にかけるとかで動く機械だけで動かそうやと。そうすると先に行く試験場と何かになんていう発想にならない。山元の製材工場がエゾだトドだと言うんでなくて、エゾだトドだカラマツだという時代がくるだろうと我々も考えないとならない、ということは工場が7割も北洋材、スプルスの時代。こんなことで儲かる、儲からないといって山元に工場を置いていても仕様がない。山元で生きる道はカラマツでも遣っていかなければならない。カラマツがこれから大径化されてくるとなると、建築骨組みとして考えていかなければならない。我々はもうその時代が来たと思っているですが、いかんせん今のエゾ・トドのように裾モノのタルキから何から全部売っていくノウハウが無いもんだから、親板だけは売っていけるも、もうそろそろカラマツ30上がどんどん出てくるようになれば針葉樹工場もそういうことになって来るだろうと。こういう時にまた試験場が浮上してくるんでないかなと考えます。アプローチが出てくるのでないかと思うんですがね。

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 高原・林産試験場と業界と言う2者の問題ではないと思います。道民が北海道の森林資源と如何に生きていくか、豊かな暮らしのために道民は何をしなければいけないかという視点から考えないと、今直面している問題は解決つかないと思います。政も官も学も業界も本当に結集して海外から来る林業林産業の競争に負けないものを打ち立てない限り、北海道は荒れていくだけのものだと思いますね。そこに視点を合わせて早く新たな北海道の山(資源)に合った林産業を立てないとならないと思うし、業界だけではできないことですから。分かりやすく言うと業界だけ生き残ろうとすると普通の外材流通屋になってしまうと思うんです。国産材にいくら手をかけたって勝てないですから、工場もできないし何も出来なくなる。単純な話が北海道に林産試験場もいらないかもしれない。海外からいいものがどんどん安く入ってくれば、消費者からみれば安く家が建てばいい話であって、そうなれば北海道に林産技術は必要ないかもしれない。そういう時代になったら山が荒れるということで、本当に困るのは道民なんですね。水源税とかいま公的資金の話もありますが、北海道に最もマッチした循環型の林業・林産業を作らないと国土は荒れるのではないかという気がします。

 高橋・林産試験場が培ってこられたこれまでがかなり基礎づくりという面あるようですがが、少し広い世界まで手掛けてはどうかなと。例えば住宅における気密性のことを代行してやるとかVOCとかホルマリン関係の測定など、つまり木質の研究ということから住宅の保証、検査、クレーム発生時の何か証明するとかの切り口があるのかなと考えます。木と技術を活かしたサイドビジネス的なバイオ的なことでもして頂けたら有り難いなと考えます。

 司会・1時間15分にわたって林産技術普及協会50周年記念座談会にご参加頂き、皆さんそれぞれの立場からそれぞれの体験、考えをお聞かせ頂き有り難うございました。