北海道林産技術普及協会の設立

社団法人北海道林産技術普及協会 専務理事 伊 藤 勝 彦

 北海道林産技術普及協会は、北海道立林産試験場が北海道立林業指導所として設立された昭和25年に遅れること3年、昭和288月に設立総会が開催され、昭和289月から業務を開始しました。

 林業指導所の設立は、一人の若き道庁マンの熱き情熱と緻密な計画によって実現しました。その若き道庁マンは小林庸秀氏です。

 氏は、北海道立林産試験場創立20周年記念誌に「創立当時をふりかえって」というタイトルで創立に到る経緯、創立に当たっての理念、創立後の様子などを書かれておられます。それによると、「敗戦の虚脱状態のうちに昭和20年の暮れもおしせまったころ、ふだんから仲のよかった水野金一郎、田中敏文、中川久美雄の諸氏に私といった連中が集まり、日本の復興、特に林材業界の復興について意見をまじえ、論議の花をさかせた。その結果、時の北海道総監熊谷憲一氏に直接お目にかかり、われわれの意見を率直に申し述べて知事の施策立案の参考とし、北海道、ひいては日本の復興に資そうと言うことになり、水野金一郎氏をリーダーとして陳情におよんだ。各自それぞれの分野を分担し、私は持論の木材研究所設置の必要性を強調した。長官はわれわれの言葉にじっくり耳を傾けておられたが、大いに賛同し激励して頂いたことを思いおこす。おたがい30代の若い情熱に燃えていたころで、敗戦日本が果たして今後どうなるかもわからない時代のことである。この長官の激励が、われわれにどんなに大きな力を与えてくれたか、はかり知れない。」と述べている。

 氏が、木材研究所設立を強調された理由は、次のようにのべられている。「私は戦時中、野幌にあった林業試験場(そのころはまだ道庁に所属していた)から軍需省北海軍需監理部航空兵器科に出向して、航空機用素材の調達と配給および管理工場の生産監督をしていたが、技術者や技能者が少ないうえに技術が未熟なため、せっかくの北海道の優良材が、航空関係に使われるものが少なく、くやしい思いをしたものであった。その経験から戦後の日本が丸裸で世界経済に進出するためには、優秀な技術者や技能者の養成と、産業界に直結した技術開発研究ならびにその成果の指導普及をおこなう機関を早急に設立する必要性を痛感し、また主張してきたわけである。」 このような考えから、基本構想としては、研究室のほかに中間試験工場を設け、研究室と中間試験工場との間に有機的な連携を持たせながら、研究室で生まれた新しい技術や改善された技術をこの中間試験工場で実験し、経済性をも加味した研究を進めるなど、産業界の技術革新に直接貢献できるような研究所とする。また、この中間試験工場を利用して、研究成果を普及指導するとともに、技術者や技能者の養成にあたる。氏は、このような構想を確立し、具体的な設計にとりかかります。このような構想について意見を求められた、当時経済安定本部天然資源調査会副会長であった東大工学部・安芸皓一教授は「このような構想の産業研究所は、今日最も必要なもので、日本では初めての試みだから、ぜひ成功させてほしい」と全面的な賛意を表されたと記されています。

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 そしていよいよ設立に向けて動き出します。氏は、戦時中からよき友人であった故奥川賢次郎氏(当時北海道木材協会理事・北海道興林叶齧ア取締役)の献身的な応援を得て、財団法人として設立することになり、当時商工会議所会頭であった伊藤豊次氏を発起人代表にお願いし、要路に働きかけ、設立への第一歩を踏み出しましたが、時あたかも昭和21年の旧円封鎖に遭遇し、計画は暗礁に乗り上げてしまいます。

 ところが翌22年春、田中敏文氏が初代の公選知事に当選、山林局から小滝武夫氏を林務部長に迎えるにおよんで、事態は好転します。すなわち、小滝部長も大いに乗り気になり、知事の賛成を得て、道費で設立することになりました。

 当時氏は林政調査室室長をしておられたので、設立準備事務局を同室内に置き、準備作業が行われました。

 そして、昭和24年、ついに氏が夢にまで見た待望の林業指導所が誕生します。とりあえず事務所を仮に道庁に置き、小滝林務部長が所長を兼ね、氏が次長に就任します。同年12月には「林業指導所条例」が制定され、調査室の室員が旭川市近文に乗り込み、建設作業が始まりました。

 研究所の名称ですが、最初は木材工業に限定せず、造材業をも含めた意味で広く「林業」の名をもってきた方がよいとの意見が強かったこと(実現は見なかったが旭川林務署安足間事業区を付属試験林とすることにほぼ内定していた)、研究所などという名称は、アカデミックな印象が強く、業界にとっては親しみにくいので、むしろ業界とともにあって役に立つ存在にしたいという意欲をこめて「指導所」としたことなどの理由から、小滝部長の命名によるとされています。

 昭和25年から本格的に建設作業が始まりました。その819日、建設の槌音が鳴り響く中、古い倉庫を改造した急場の会場で、300人が参列して、開所式が挙行されました。

 当時所長は旭川に常駐して居らず、次長である小林氏が陣頭指揮を執り、研究施設の建設、組織体制の整備が進められました。近文には研究施設ができておりませんでしたので、研究員は、豊平と野幌の農林省林業試験場北海道支場の研究室を借りて、研究を始めておりました。最後の研究員が近文に到着したのが、昭和287月のことと記録にあります。

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 昭和28年はようやく組織体制が整った年です。これで、小林氏が描いた研究所の体制が全て整いました。さらに氏は、指導所の成果の指導普及については、指導所の組織をあげておこなうとはいえ、公設機関としての限界もあり、指導所と業界を繋ぐ組織を考えられていたのではないでしょうか。そして、昭和2886日木材業界の有志が集まり、北海道林産技術普及協会の設立総会が開催されました。

 昭和30年、小林氏は、指導所を去りました。氏の研究所構想の最後の仕上げが当協会の設立であったのではないでしょうか。

当協会誌の第1号に、協会の発足に寄せられた次の祝辞が掲載されています。50年前に先輩諸氏が抱いていた林業指導所に対する厚い信頼と、その指導所と表裏一体となって林産技術の向上をめざす大きな気概が行間から読み取れます。

 協会の発会に寄す   北海道合板協会長 真 弓 政 久

 北海道林産技術普及協会が発足しましたことは、我々木材加工関係者と致しまして、誠に喜びに堪えない次第であります。本道産闊葉樹は吋材として又合板及び床板として世界市場に輸出され、その声価は既に衆知の事実として認められて居りますが、更に一歩前進してこれが最終目的たる完成品迄に技術を引上げて行くには未だ欧米の機械、化学技術、利用合理化、集約利用に立遅れている現状であり、これが促進の為北海道立林業指導所の設立を見たのでありますが、仝指導所に於いて各部施設の完成と相俟ち硬質繊維板及び成形合板、廃物利用に依る家具材料等あらゆる新製品を発明製造されている時に当たり仝所内に木材加工技術の権威者及び官民の木材加工関係者の構成にて林産技術普及協会の発足を見ましたことは森林資源の不足な我国に於いては誠に有意義なことと存じます。仝協会が発行することになりました指導所月報には毎月仝所の新製品の発表、技術研究合理化等が報道され、これが業界の指針となり、業界発展の為寄與すること大なるものがあります。

 茲に謹んで本協会の発展を祈念して祝辞と致します。

 

 協会の発会を祝して   三井木材工業株式会社札幌支店長 小 川  茂

 北海道に於ける林産工業技術研究の促進普及のため、今般北海道林産技術普及協会の誕生を見ましたことは、森林資源利用合理化の重要性を叫ばれて居る今日、誠に時宜を得たるものと存じご同慶に堪えません。

 北海道の森林資源も戦時中の乱伐により、漸減の一途を辿りつつあるとき、之が対策として勿論造林及び伐採の規整並に奥地林開発等積極的な施策が必要でありますけれども、一方林産加工の面から観ると森林資源の集約利用並に高度利用も決して疎に出来ぬ問題であると存じます。

 この時に当たり、道立林業指導所が林産工業部門の各般に亘り、之を単に机上に止まらず、常に実際面と併行し研究せられ、その研究成果に依り業界を稗益せられた点は不尠ものがあって、北海道に於ける林産技術研究の中核として、業界の指導啓蒙に当たって居られる際、今日更に業界との連携をより緊密ならしめるため、協会の発足となりましたことは、我々業界としても眞に大いに期待、歓迎する処であります。

 戦後本邦諸種工業は目ざましい発展を遂げて居ります中にあって唯木材工業のみは、多工業に比べると相当の懸隔があり、更に我国のそれは欧米先進国に比べ十数年遅れて居ると云われて居ります。この原因は今迄資源が割合に豊富であったこと、利用面が非科学的であった事等種々ありましょうが、之に携わる者の怠慢も一因と考えられ慚愧に耐えないところであります。然し之が研究を進めることは、個人の力では各々その間限りがある所でありまして、指導官庁、民間業界力を合わせて強力に進まなければ大きな効果は挙げられません。この秋にあたり林業指導所を母体にこの協会が発足した事は、非常に有意義なことでありまして今後の成果も大いに期待されてよろしいものと存じ、此処に御慶び申上げる次第であります。

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 協会発会の意義深し   北海道木材林産協同組合連合会会長 松 井 耕 造

 総ての研究は研究自体よりもその目的の為の過程と結果の発表に難点がある。目的や性格にも依るけれど時としては限りない研究に没頭しきりで、即ち象牙の塔になるかたむきがある。又一般に周知徹底しようとしても多数の相手に普及するのには相当の苦労を必要とする。今回北海道立林業指導所を根幹として林産技術普及協会が誕生されました事は斯界の為め誠に慶祝に耐えません。その使命は会員相互の親睦に寄與される事も勿論であるが、本道に於ける林産技術の研究促進と一般技術の向上とこれが普及に多大の役割をなされるものと期待する次第であります。

 木材が人類社会に大なる貢献を齎らしておる事は今更申すまでもありませんが往々にして一般にこうした普遍的恩恵を忘れるのが常であって、資源の培養や消費の節約等はある一部にのみ唱導されるうらみがあります。業を林産におくものは卒先之が実行に努力しなければならぬ。林産技術の研究向上も一にこの使命達成の為であります。道立林業指導所は前述の遠大なる理想の下に計画され多大の使命を帯びて発足され以来本道林産業者の個々が至難とする研究を日進月歩継続されて今日まで指導に努力されております事は深く敬意と感謝の意を表する次第であります。この指導所を根幹として、その研究の成果を協会がどしどし会員否本道は勿論遠く本州に到るまで普及せんとして、ここに発会されました意義は最も深いものがありますと同時に従来指導所が苦心を重ねてこられました努力に報ゆるの所以でありますから吾等林産業者として協会の発足を心から喜んで迎えると共に協力を誓うものであります。本協会の発会を心から祝福すると共に、将来の発展を祈る次第であります。

 

 祝辞を寄稿された方々は、副会長(真弓政久氏・小川茂氏)、常任理事(松井耕造氏)として、その後の協会運営に御活躍されておられます。

 協会の発足当初は林業指導所長・柳下剛造氏が会長をつとめていましたが、協会の自主運営を願う意味から、昭和306月に真弓政久氏にバトンが渡されました。また設立後しばらくは任意団体として運営されていましたが、一層積極的な活動を行うため、昭和40728日の定期総会で社団法人化が承認され、翌昭和41331日付けで認可され、社団法人となり現在に至っています。