北海校倉ハウスの思い出

北海道立林産試験場 副場長 丸山 武

[はじめに]
 20年程前に取り組まれた北海校倉ハウスに関するプロジェクトはいわゆる産学官連携の成功事例の一つであり、そのコーディネーターとしての(社)北海道林産技術普及協会(以下、普及協会)の役割は50年の歴史の中で特筆すべき事項の一つと言えるでしょう。この20年の間、国内的にも国際的にも文字どおり激動の時代であり、あらゆるものが大きく変わったことに今更ながら驚かされます。ログハウスに関連する法規である建築基準法にしても数年前に大幅改正され、それまでの仕様規定から性能規定へと変わっています。また、その監督官庁である建設省も省庁再編によって国土交通省という名称に変わっています。筆者は当時北海校倉ハウスの特認作業に関わったことから、ログハウスの開発経過、建設省特認の経緯などについて振り返ってみたいと思います。

[円柱切削機の導入]
 カラマツ、トドマツ等の針葉樹人工林材の需要拡大を図っていくことは、本道の林業・林産業の最重要課題の一つであり、林産試験場ではそのための利用技術開発に一貫して取り組んできたところです。当時はどちらかと言うとカラマツ中小径材の利用技術開発が急務となっていた時期でした。いろいろな用途開発を進めてきた中で、中小径の丸太をある一定の直径の丸棒に削り出し、部材寸法を規格化した使い方に注目しました。このような使い方であれば一般的な製材よりも歩留まりは高まり、角材とは違った新たな用途が期待できます。そのような考え方から林産試験場では昭和54年にその種の機械では先進国である当時の西ドイツから円柱切削機を導入し、カラマツ中小径材による円柱材の利用開発を開始しました。当初はバンガロー程度の小型の建物、あずまや、遊具、フェンスなど、比較的小規模の構造物を対象としてきましたが、その後、校倉式の建物、いわゆる本格的なログハウスとしての利用開発へと進めました。

 林産試験場で導入した機械は確かわが国での輸入1号機ではなかったかと思いますが、道内外からその機械を視察に来る関係業界の方々が多数あったことを覚えています。その後いつの間にか国産機が市販されるようになりました。道内外の木材業界でも機械を導入して円柱材の加工を始める企業も出てきました。そして、ログハウスをやってみたいというかなり具体的な技術相談も寄せられるようになりました。技術的な様々なことについて一応は説明できても、当時の建築基準法38条の特認を取得しないと一般には建てられないことを付け加えるざるを得ないもどかしさを感じていました。

[ログハウスの開発]
 そこで、とりあえず特認を取得するための構造設計および施工上の技術資料を得ることを主目的に林産試験場構内にカラマツによるログハウスを建てることになりました。建設工事は当時の加工科の金森研究員(現技術部主任研究員)を中心に昭和58年4月に着工され、7月に完成しました。建物は床面積82uの本格的な大きさのもので、内装や建具には林産試験場の開発製品を組み込み、実際の建物を見て触れて木の良さを知ってもらおうとするモデルハウスも兼ねていました。これらの実行には相当の費用を要しましたが、その予算確保には当時の企画室齋藤計画係長(現林産試験場長)に奔走してもらいました。

 部材加工から施工手順までの確認、そして最終的な構造計画の妥当性を確認するための実大水平加力試験を実施して、設計のための貴重なデータを得ることができました。このことはテレビや新聞でも取り上げられて、一般市民も含めた多数の方々が見学に訪れました。当然ながら是非建ててみたいがどうしたらよいかという相談が多数持ち込まれました。しかし相変わらず、まだ特認を取っていないので実際には建てられませんで話は終わってしまいます。林産試験場としては非常に矛盾した立場でやっていたわけです。これではせっかく林産試験場で開発した技術を業界に移転することができず、カラマツの需要拡大にもつながっていきません。

 行政サイドでもこのような状況を何とか打破しなければならないことは承知しており、いろいろ方策を模索していました。そして当時の堀林産課長(現北海道知事)がNHKテレビの「明日の資源カラマツ」という番組で「ログハウスの認定を近々道も肩に力を入れて取って普及します」と発言したことをきっかけに事態は急速に展開していきました。

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[ログハウス建設部会の設立]
 特認手続きをするには実際のところどうしたらよいのか、どこが取ればよいのか、よく見えないというのが実態でした。そこで、当時の林産課の担当者で後の林産試験場長の川上主任技師と松田主査の3人で昭和59年2月に上京し、(財)日本建築センター、建設省、林野庁、国立林業試験場、(財)日本住宅・木材技術センター等へ調査に出かけました。北海道の計画を説明し、それに対していろいろとアドバイスをいただきました。その調査をもとに関連業界を含めた関係機関で打ち合わせた結果、普及協会の中に「ログハウス建設部会」をつくり、そこが主体となって作業を進めることになったわけです。このように業界が一本化されることで林産試験場や行政も効率的に対応できるし、決して安くない特認取得のための経費を各社で分担できるわけです。ログハウス建設部会は同年4月に正式に設立され、「ログハウス建設部会設置要領」および「北海校倉ハウスの建築基準法に基づく認定申請及び認定後において当該認定に係る権利の行使等に関する取扱い方針」が定められました。その時の部会構成員は厚浜木材加工協同組合、山陽木材防腐株式会社、深川林産株式会社、村井産業株式会社の4社で、部会長には厚浜木材加工協同組合鈴木副理事長(現理事長)が選任されました。部会にはその後、京極町森林組合、北見地方カラマツセンター、置戸林産流通加工協同組合連合会、当麻町森林組合が加入しました。

 林産試験場がそれまでに実施した一連の構造実験と施工試験等のデータをもとに、各部会員とジョイントした建築設計事務所が具体的な設計図書の作成等の特認作業を行いました。この作業は構造計算書の作成のみならず、部材品質管理仕様書、工事監理基準、現場工事標準仕様書など多岐にわたるものです。これらの作業はログハウス建設部会設置以前からかなり進められていたのでスムーズにまとめることができました。

[北海校倉ハウスの誕生]
 特認申請では物件に具体的な名称を付ける必要があります。部会設置準備の段階で議論され、北海道で生まれた校倉式建物ということで「北海校倉ハウス」と命名されました。特認申請のための作業は順調に進められ、昭和59年4月13日に北海校倉ハウス標準型についての構造評定申請書類一式を日本建築センターに提出しました。第1回目の評定部会はその2週間後の4月26日に開催されました。担当の評定委員は2名で、1人は佐野武蔵工業大学教授で、同行した設計担当者のうちの1人である釧路の長谷川建築設計事務所長谷川所長の恩師で、もう1人は有馬静岡大学助教授(現東京大学教授)で、筆者とは多少の面識があったことでかなり楽な気持ちで評定を受けることができました。評定部会は2週間おきくらいのペースで合計4回開かれ、毎回担当の建築設計事務所の方と出席しました。その都度いろいろ指摘を受けた部分を次回までに訂正したり、付け加えたりする作業を行いました。その結果、7月17日に日本建築センター木構造分科会において構造評定をパスした旨の通知を受け取ることができました。その時の感激は何とも言えないもので、まさに感慨無量でした。数日後に札幌で行われたログハウス建設部会で経過報告を行い、その夜の祝賀会において関係者一同で喜びを分かち合ったことが思い出されます。

 その後、ログ部材の断面形状の違い等のあるバリエーション5種類についての構造実験を相次いで行い、それを基に構造評定を申請し、評定部会に臨みました。それらは標準型を基本としているので各バリエーション2回の評定部会で完了しました。最終的には昭和60年8月までに計6種類の北海校倉ハウスシリーズが誕生したことになります。

 その間、各社において個別認定による建築実績を順調に積み重ね、昭和60年10月には一般認定を取得することができました。これで一般住宅の場合と同じように確認申請での建築が可能となったわけです。輸入ログハウスの特認は既にいくつかありましたが、国産材による本格的ログハウスとしては初めての一般認定ということで全国的にも大きな注目を集めることになりました。

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[北海校倉ハウスの供給・管理体制]
 建設省の特認を受ける物件には材料の供給から建物の施工監理までの管理・責任体制を明確にしておく必要があります。北海校倉ハウスの供給・管理体制としては普及協会=ログハウス建設部会が責任母体となり、工事管理規準等の自主管理規準を作成し、品質向上に努めることになっています。ログ部材は普及協会が指定した部材生産業者=ログハウス建設部会員によって生産されます。実際にユーザーから注文を受けるのは販売施工代理店ということになりますが、この代理店が指定部材生産業者から部材の供給を受けます。この販売・施工代理店は普及協会の主催する技術講習会を受けることが義務付けられています。この販売施工代理店は指定の建築設計事務所に設計・施工監理を委託し、最終的にこれら設計事務所の責任監理のもとに設計仕様どおりに建てられることになります。

 北海校倉ハウスを全国に普及するには販売・施工代理店を増やす必要があります。そのために特認作業と平行して、普及協会主催の技術講習会を実施しました。筆者も講師の1人として北海校倉ハウスの構造的特徴などを講義しました。第1回目は昭和59年7月に、近々特認を得ることを見越して旭川市で実施し、その後、釧路市、東京都で実施しました。受講を終了し、販売・施工代理店として登録された業者は80社ほどありました。その所在地は遠く九州まで含めて全国に及んでおり、北海校倉ハウスがいかに注目されていたかを物語っています。

[ログハウスのオープン化]
 このような特認作業を進めていた頃、国際的にはわが国と諸外国との貿易摩擦が最高潮に達していた時期で、大幅な貿易黒字に対して市場開放の要求が大きく高まっていました。政府はその要求に対処するために全省庁挙げて、関税、政府調達、基準認証、サービス等の分野での市場解放のためのアクションプログラムを昭和60年7月に策定しました。現在でも盛んに言われている規制緩和のさきがけと言うことができるでしょう。一方、国内的にはログハウスが静かなブームになっていました。ログハウスに関する専門雑誌が発行されるようになったのもちょうどその頃です。しかし、現実には山の中に無届けで建てるケースも多く見られ、これらの違法建築が社会問題になっていたのも事実です。そのようなことでログハウス関係者からは規制緩和によってもっと建てやすくすべきだという声が高まっていました。

 そのような外からの強い圧力と内からの静かな声を背景に、建設省のアクションプログラムは何とログハウスに関するものでした。建設省では直ちに専門委員会を設置し、検討を開始しました。短期・集中的に作業が進められた結果、昭和61年3月に建設省告示として「丸太組構法技術基準」が公布されました。これによってある一定の範囲内であれば自由に建てられるようになったわけです。この技術基準の策定には北海校倉ハウスも大いに参考にされました。この技術基準はその後順次改定され、設計に関する自由度は高いものになっています。基準に当てはまらない場合には従来のように特認手続きが必要です。

[おわりに]
 このようにログハウスが政府の規制緩和の一環として異例の速さでオープン化されたことで建設省の特認というメリットが実質薄れはしましたが、本道の木材業界が建築基準法による特認を取得したという事実は自負できるものです。これらに関するハード・ソフト両面での技術的蓄積と、フロントランナーとしての実績は非常に大きな自信につながったと思われます。また、部会員と建築設計事務所との連携がその後も継続され、新たな事業の展開につながっている事例もあるようです。いずれにしても林産試験場で開発された技術を会員である業界に普及していくという普及協会の本来の目的が明白に発揮された事例の一つであったことには間違いないでしょう。

 ログハウスの構造実験や設計図書の作成、あるいは評定部会への出席、技術講習会の準備等々、日夜夢中で取り組んだことがつい先日のように思い出されます。その内容はまさに筆者がそれまでやってきた木質構造・木質材料に関する仕事の集大成であったし、林産試験場におけるこれまでの30数年の研究生活の中でも極めて充実した時期であったと自負しています。また、この仕事を通じて木材業界、建築設計事務所、建築施工業界、関連する国や道の行政機関、あるいは評定関係の先生方等々、多くの方々を知ることができたことも貴重な財産として残っています。

 おわりに、北海校倉ハウスを世に送り出すことに関わっていただいた多くの方々にあらためて感謝申し上げます。また、当時のログハウス建設部会の事務局を担当され、林産試験場と一体となってこのプロジェクトの推進に尽力された元普及協会常任理事小野寺重男氏および元普及協会主事山内賢治氏は既に故人となられましたことを記し、衷心よりご冥福をお祈りいたします。