50年の歴史の折り返し点を顧みて

元 北海道林務部長 千廣 俊幸

 

 「残雪が庭に、きびしい冬の名残りのようにあった近文の公宅に、足をふみ入れたのは、1980年の4月でした・・・」と、協会の普及誌に私が「林産試験場職員としての1,100日」というタイトルで投稿してありますから、今から思いかえしますと試験場にとっても林産技術普及協会にとっても、その50年の歴史のなかば過ぎの時点に私が関わりをもたせていただいたのか、と感慨の深いものがあります。この感慨には、ただ、ふりこし年数というだけではなく、当時のわが国の経済をめぐる内外の大きな変革の波にほんろうされつつある本道の木材産業の経営環境への影響に、行政も業界も将来展望をどのように想定して具体的な戦略をすすめてゆかなければならないかという、きわめて逼迫感のある時期でもあったように思います。このような時に、木材産業が、まん然と製材とチップという低加工品を主体にしていたのでは、将来性のある企業群としては疑問があるという思いと、自然が超長期にわたってつくりあげた木材という無限の製品開発の可能性を秘めた材料のポテンシャルを、ダイナミックに顕在化できる技術開発と、業界に技術移転をすすめなければならない、という思いにかられていた時期でもあったように思います。

 着任して、私が第一にすすめなければならなかったことは、試験場の運営の改革と職員意識の啓発でした。まるで大学の研究室で仕事をしているのかと思いまごうほど、時の行政課題への関心がうすい職員意識、一部を除いては木材業界の実態との接触がきわめて少なく、本道の木材産業の将来を決めるべき技術開発への積極的な意欲に疑問を感ずるなど、基本的な課題がどんと背中におおいかぶさっておりました。もちろん、施設の移転整備という大課題もありましたが、そのことよりも、私の頭のなかで取組まなければならないプライオリティの高いものは、このことでした。

 こうした背景の中で、試験場の長期を見通した試験計画や試験設計はもちろん、いくつかの各部門を横断的に編成したプロジェクトの創設による短期決戦の体制づくり、特に成果を検証する照査にも、厳しいチェック意識を持つように進めたつもりでした。

 こうした一連の試験場運営の中のひとつとして、研究の成果や情報をやわらかい文章により多くの人達に、行政の動きも同時に理解いただくために「行政の窓」を組入れて、昭和55年9月に「林産試だより」を創刊しました。そして、普及協会が発行していた普及誌「木材の研究と普及」も、業界人を対象としているにも関わらず、まるで研究報告書のリプリントをそのまま掲載するという感じで、仲間だけが理解できる専門用語を駆使し、むずかしい表現で、これで業界人に理解を求める普及誌といえるのかと、疑うような内容でしたので、木材業界経営者や第一線の技術者の方々に、親しみと希望を込めたメッセージとして「ウッディエイジ」と改め、表現も口語体にして、読みやすいようにしてもらいました。

 試験場には多くの成果が集積されておりますだけに、これらが木材産業にダイナミックに技術移転がなされ、木材産業の出荷額を押し上げ、本道経済に大きく寄与するようでなければ、試験場の評価にもつながりかねません。

 そのためにも、この技術移転が極めて重要なポイントであろうと思います。これには、移転しやすい行政上の措置もぜひ必要ですが、この面の役割の中心になるべき普及協会の対応も大きく期待されるところです。

 どうぞ、北海道林産技術普及協会におかれては、林産試験場ともども50年前に林業指導所として発足した原点の理念を忘れずに、つねに業界とともに、の考えを基調にしたご発展を心から期待申しあげ、今回のお求めの責めを果たしたい
と思います。