普及協会と思い出すこと

元 北海道立林産試験場長 信太 壽

 北海道林産技術普及協会創立50周年のお知らせをいただき、お目出度うございますの感ひとしおです。

 私は昭和29年4月の入所なので、その前年に創立された普及協会との長い関わりを改めて思い出しております。

 

黒田場長の言葉

 入所数年の間は、「指導所月報」と「木材の研究と普及」の関連はよく分からなかったのが実態でした。黒田一郎場長は次長時代から、事ある度に職員への訓示をされ、しかもじっくり時間をかけて話をされる方でした。大変なご苦労のはずでしたが、職場の一体感を醸し出すのに大変有意義であったと思いました。その話の中に「技術普及は機関と普及協会協会の表裏一体の活動である」としょっちゅう言われていたことが、頭に染み込んでいます。

 

キノコ種菌の販売

 林業指導所では昭和27年からキノコ種菌を製造販売したが、販売の金銭事務処理が複雑で面倒であった。昭和29年から新規開発したシイタケ林指1号菌が加わるを機に、販売業務を北海道造林振興協会が担当した。さらに製造数の増加に伴い、昭和40年頃から普及協会もこれに加わり、初の事務局専任職員であった湯浅清一さん(元総務部長)が担当された。最盛期には道内原木数の半分を林指菌で占め、販売個数も3万個に達したと覚えている。市販キノコ種菌の供給体制が整ってきた昭和50年頃に、この事業は終了した。冬の種菌製造繁忙期には毎朝湯浅さんと打ち合わせをした。湯浅さんは元来実直・厳格な方であったが、第二の職場ではゆったりされた面ももたれ、お茶をご馳走になりながら、昔の勤務地の話などをされ、教えられることが多かった。現職時には協会の社団法人化に力を添えられたと聞いています。

 

村上会長と高橋会長

 昭和53年の初秋、好天の午後の西日がじりじりと入る近文庁舎会議室で、村上彦二会長が部課長に汗を流しながら話をされた姿がいまだに目に浮かびます。内容は林産業界の現状と技術改革の必要性、林産試験場に期待するものと老朽化した場設備の更新などであったが、内容もさることながら訥々とした喋り口で、汗も拭わずに話をされた熱意にうたれた。我々科長連中はやはり業界トップの話には迫力があり、こういう人達の話を度々聞きたいものだと話し合った。これが試験場の整備に期待された業界からのメッセージでもあった。

 その後、会長とのお付き合いも増えたが、眼を悪くされて会長職辞退の言葉も出されたが、試験場整備の目途が付くまではと、無理強いに続けてお願いしていた。しかし試験場整備の始まった任期に、会長は新試験場記念行事に粗相があっては申し訳ないからと、会長職を強く辞退され、その責任感に感銘を受けた。

 高橋二郎会長には試験場整備や落成記念協賛会などで大変お世話になった。会長は新技術・新製品に積極的で、研究室にもどんどん入り込み、研究員と熱心にアイデアを議論される方で、業界と親しむ試験場にするうえで大変有りがたく思っていた。庁舎玄関ホールの2本の円柱も会長の助言で、当初の設計を変更して会社の木材を提供してもらったりした。

 村上会長・高橋会長さんともに既にお亡くなりになったが、新試験場建設の時期に当たり大変ご尽力いただいたことを改めて感謝いたします。